紙まつりの歴史
 
はじめに

四国中央市は、四国のほぼ中央、愛媛県の東端に位置する。
東は香川県、南は徳島県・高知県に接し、北は国立公園瀬戸内海の燧灘の湾曲中央部に面しており、三県との県境を有する地に市街地が形成されている。
古くから伊予、土佐、阿波を結ぶ接点として、また内海の船運とあいまって海陸交通の要衝となった。

江戸時代には参勤交代の土佐街道となり、また、この地へ代官所をおいて近隣48か村を幕府直轄領として支配し、政治、経済、産業、交通上重要な地位にあった。

本市の基幹産業である製紙業は、宝暦年間(1751年〜1764年)から200余年の歴史をもつといわれ、この地方の住民が藩の特別な保護もなしに、「手すきわざ」は生業として独立心と不屈の研究努力によって、家内工業から専業へ、個人企業から法人組織へと発展した。今日では全国でも有数の「紙のまち」となったのである。


紙まつりの始まりと内容

これらの歴史的背景を持つ当市は、今日では紙製品の製造・出荷量が世界シェアの1%を占める文字通りの”紙のまち”である。

紙製品で生産できないものは、「紙幣と郵便切手」くらいのものと云われるほど全ての紙製品が生産されているまちである。

しかし、製紙業は公害のデパートと言われるくらい公害問題はつきもので、オイルショック以後“西の田子の浦”と冠され、社会問題として広く報道され、住民と製紙メーカーが敵対感情をあらわにし、まちのイメージも大きく落ち込んだ。

その後、企業の環境浄化に対する自助努力や行政指導もあって、公害のまち返上に取り組みはしたが、市民と企業や行政との連帯意識は欠如していた。

そのような社会背景の中 旧川之江市において、川之江青年会議所(JC)が1977年「市の問題点、市民意識の発掘」を目的に市民アンケート調査を実施し、「’77見つめよう我がまち創ろう未来の川之江」にまとめた。

市民のコミュニティ意識の中に「新しい郷土のまつり」の発想に賛成者が多数占める結果を見た。

そこで、川之江青年会議所(JC)では地域の発展と人間生活の調和を求め、「川之江ペーパーカーニバル」を単独で企画して第1回のまつりを1978年に小・中学生を対象に第一歩を踏み出した。

第2回目からは、24団体で実行委員会を構成し、このまつりの目的に「この川之江ペーパーカーニバルは、市民全員の賛同と参加のもとに、故郷かわのえの紙を主題とした祭りとして、永く定着し、さらに発展させることにより、市民生活に潤いと活力をあたえ、明るく、豊かなふるさとづくりの一環とすることにある。」として幅広い祭りとなった。

第3回からは、名称をペーパーカーニバルから紙まつりと変更し、紙娘4名を選出して、県下をはじめ、香川県、徳島県の近隣の市町村にこの紙娘を中心にキャラバン隊を編成しておおいに宣伝を行った。

第4回(1981年)は、紙おどりを創作して市民団体を中心に普及し、紙娘5名選出して、キャラバン隊が積極的に宣伝、実行委員会も28団体になり、市、青年会議所、紙パルプ工業会、商工会議所、観光協会の5団体が事務局団体となり、紙製品展示会、紙製品即売会、紙による造形物、てんびん(大型あんどん)、目で見る紙展、ペーパークラフト展、折り紙コーナー、ペーパーフラワーコーナー、絵画・書道・色紙展、手すき和紙実演、神事、紙気球打上げ、パレード、紙おどりてんびん絵合せ、カラオケ大会、お祭り撮影会、ふれあい広場、中学生の吹奏楽演奏等々、2日間で盛り沢山の行事を催した。

以後、旧川之江市の市民祭として開催されてきたが、平成16年に近隣の伊予三島市・土居町・新宮村との市町村合併により四国中央市が誕生し、第27回は新市のイベントとして開催され、第28回は名称を”四国中央紙まつり”とし現在を迎えた。